流れ行く時に標(しめ)を結い

「一年の計は元旦にあり」と言われますが、近頃行われた女性のライフスタイルに関する調査で『新年に「目標」や「決意」を決める女性は、 新年の慣習にも熱心』という結果が得られたそうです。

元旦に限らず、年の節目を迎えると誰しも「今年は◯◯しよう」とか、昨年達成できなかった目標の仕切りなおしを心に抱くものではないでしょうか。しかし、その「目標を決める」ということと、新年の行事、慣習に関連性があるとは、正直思っても見ませんでした。私自身はというと、新年の行事に関しては「年越しそば」と「おせち」は欠かしません。また神棚を祀っているので、毎年古い御札を納めて新しい御札を求めるため神社に詣でます。ただ、これらの行為はまさに慣習によるもの。父親がそういう年中行事を大切にしていたので、体に染み付いてしまったものと感じていました。

それに対し、何らかの目標や決意を固めるというのは、もっと積極的なアクションだと思うのですが、今回の調査結果のポイントはそれを思い立つシチュエーションにあるのでは?と思いました。
新年が明けたから、新年度だから、誕生日だから、記念日だから…カレンダー的なものにしろ、パーソナルなものにしろ、そこには「時」と密接な関係が感じられます。

つい先日も「マヤ暦の終了で世界が滅亡か?!」などと世間を騒がせていましたが、多くの人々は今日と同じように明日がやってくると思っています。いえ、そんなことは意識すらされていないのかもしれません。一所懸命働いた人にも、のんべんだらりと過ごした人にも、きっと明日はやってくるのでしょうから。

でも、ともすると「時」は手ですくった乾いた砂のように、するすると指の間から流れ落ち過ぎ去っていってしまいます。はたと気がついた時には玉手箱を開けてしまった浦島太郎になっていた…というのも、あながちお伽話だとは言い切れません。
だからこそ、一年の節目に際し注連縄(しめなわ)を張るがごとく、心に新たな思いを刻むのではないでしょうか。注連縄は標縄、七五三縄とも表記されます。元は神聖な地を他と区別するために張られた縄を指しますが、漢字からわかるように、標(しるし)そのものであったり、七五三は「七歳までは神の子」と言われた子供の成長の節目を指したものです。

「目標を定める」というのは、誰にでも平等に与えられた「時」に対し、心で標を結わえ付ける行為なのかもしれません。「時」をただ流れ去っていく川にしないために、「時」を大切にしているからこそ年中行事にも関心を持ち、伝統や慣習を重んじるのではないでしょうか。

そんなことに思いを馳せつつ、2013年の元旦には私もお節をつまみながら一年の計を心密かに企てるとしましょうか。

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